では、ヒトもしくはコネクティビティ症候群

待ち合わせや仲間同士の客が入れ替わる立ち替わるタリーズ@六本木でひとりぼっち。ご要望にお応えしてちょっと書いてみよう。

ケータイとインターネットというもので、ヒトはこれまでには考えられないぐらい、常にヒトや世の中と繋がるようになってきた。

ケータイが無い時代、待ち合わせというものは、特定の時間・場所が決められ、そこに行かないと、行ってる場所を知らなければ、会うことも出来なかった。遅れていく場合や、突然参加・招集なんてことは、あまりあり得ない世界であったが、全てはケータイの登場で、変わってしまった。

最近、殆ど時間や場所を明確に取り決める待ち合わせなんて、しない。「何時頃、あの辺で」という具合である。金曜日は、必ず日が昇るまで呑む我らの仲間にいたっては、お互いに夕方、「じゃ、テキトーに」でアレンジ完了である。行く店が大体決まっているとは言え、ふと考えると、スゴイことだったりする。この変化を普段全く意識していないってことが、更にスゴイ。ぼくなんか、ケータイが登場したのは、社会人以後だから、中高大時代のことを思い出すと、結構びっくりしちゃいます。

ぼくは昔から、タバコやカフェイン、冬の夜の月、ケンタのチキン、テレビ、変わり者のヒト、最近ではガンコ(ラーメンね)など、色々なものの依存症ですが、恐らく最も顕著なのが、コネクティビティ依存症だろう。

朝、出勤・登校途中の電車の中で、「あ、ケータイ忘れた」と気付いたときの、突然知らない世界に一人ぽつんと放置されてしまった様な感覚、味わったことありませんか?それがコネクティビティ症候群です。ぼくなんか、遅刻してでも、取りに帰ったりしちゃう。それぐらい、ケータイが無いのは、不安なのだ。取りに帰れない状況にあって、一日ケータイが無いときなんて、もう廃人同様。誰かから連絡あったらどうしよう、気になって気になって仕方ない。わざわざ遠隔で留守電チェックしちゃったりする。思わず知り合い全員に、「今日はケータイ忘れたから、留守電必ず入れてくれ!一時間おきにチェックするから!」って、ブロードキャストしたくなってしまう。

友達と海外旅行に行くとき、買い物中とかに何も考えず、「テキトーに別行動で」なんてやっちゃうけど、実はケータイ無くて連絡が取れず、最集合にあたふたする、そんなのもコネクティビティ症候群(使い方間違ってるよね、きっと)の現れかも。

ぼくの場合、ケータイは最低限、ここ数年は、ブートもしやしないのに、小旅行に行く場合は、PCを持っていないと気が済まない。2つ以上、メールやWEBに繋がる手段が無いと、恐怖に近い感情を覚えます。

ヒトって、根本的に、どんな形にしろ、繋がっていないと生きていけないんですね。これは基本。家族や友人、仲間などと、友情や愛情と呼ばれる絆で繋がっている、これも基本ですが、通信手段が原始的・非モバイルだった頃は、こんな不安は無かったと思う。愛情テレパシーみたいなので、一人でも不安じゃなかった。これも、コネクティビティですわな。

そういう繋がりが失われているわけじゃないけど、いまはケータイという非常に物理的な繋がりの道具が、コネクティビティの象徴となり、無くてはならないものになってしまいました。

ケータイって、どこにいても捕まっちゃうから、嫌なんだよね。って言うヒトもいますが、ぼくはそう思わない。都合の悪いときは、電源切ったり、出なければいいだけ。それはヒトが自分でChoice出来ることだから。でも、逆にケータイが無い、という状況においては、ヒトは繋がりたいという欲求を、満たす手段が無い。これはChoice出来ない、つらーいことなんだよね。

公衆電話使えって?そりゃ使えますが、皆さん、電話帳に登録しているヒトの番号、いくつ覚えてますか?

  • おわり-

おまけ:ぼくは実家と、会社、あともう一個ぐらいしか覚えてない。(見たらだれの番号かは、なんとなくわかるけれどね)非ケータイ時代は、少なくとも大体の友達、20番ぐらいは覚えてたけど。因みに、何故か20年も前に引っ越してしまった、NY時代の家の番号はいまでも覚えてます。ヒトの記憶ってのは、面白いもんですな。