【日記】音

音楽、と書くと「楽」しい、「音」なわけで。

でも、科学的に考えると、音楽とは時系列順に並んだ様々な音に過ぎない。

感涙にむせられる楽曲と、街の雑音は、本質的には一緒なわけだ。

でも、音楽については一晩かかっても語りきれない。でも雑音については語ることは殆ど無い。この違い、なんなんだろう?

ココロを動かしてくれる音、それが音楽なんだろう。それ以上でもないし、それ以下でもないのだろう。「音」に「楽」しいを付けるわけだから。

言葉としてこれは理解してたことなんだけど、最近自分で「音」を創ってみて、体感できた。だから、全ての「音」がよけいに好きになった。

考えたみたらヒトは常に「音」を創ってるのだ。大勢でも、二人でも、一人でも語り、笑い合うこと。そこにはリズムが、メロディーがあるのだ。語っている言葉など二の次。それはまさに生まれたときからやり慣れているジャムセッションなのだ。初対面のセッション、少し知り合ったセッション、ちょっとココロ開いちゃいましたなセッション、ソウルメイトとのセッション、更に年月を経て熟成していくセッション。

こんなことを言うと、怒られるかもしれないが、耳を失うぐらいなら、目を失う方が良い。いや、目を失っても、想いのこもった声、想いのこもった肌の温度、想いのこもった鼓動を聞こえることで、ヒトは生きていけると想う。

ぼくの祖母は若くして光を失ったが、それでも、世界の音を聞き、手を目の替わりに、子供達の、孫達のぬくもりを感じ、声を聞き、最後まで笑いながら、楽しみながら、すばらしい生を全うして逝ったと想う。

いや、光を失ったのではない。目を失っただけなのだ。光とは、ココロで感じるものなのだろう。うん。そう想う。

「音で語る」。声でも、楽器でも、びんぼうゆすりでも、なんでもいい。すごく原始的で、難しくて、楽しくて、夜眠れなくて、でもキモチの良いことなんだよね。しかもそれは、一人ですることじゃないんだよね。お互いのリズムとメロディーをぶつけあって、新しいモノを生み出すことなんだよね。

音って、そういうもんなんだよね。そういう音が一緒に創れるって、すっごく幸せなことなんだよね。


おわり
PSということでそんな音をもっとよく聞くべく、耳かきしながら一気にアップしてみました。