「マトリクス」についての哲学的考察

さきちさんからコメントも頂いたので、これまで書かずにきたのを書こうと思います。3部作観てない方、ネタバレあるのでご注意下さい。

マトリクス3部作、映画としては色々な意見があります。まず、あの世界観、ストーリー、そしてビジュアルは、ぼくは一点を除いて斬新だと思いませんで、むしろ慣れ親しんだものという感じがしました。

斬新でなく、慣れ親しんだのはどこかというと、漫画やアニメです。斬新だと思った一点は、あれを実写(CGを実写とするかの議論はあろうかと思いますが)でやってしまったところです。最後、レボリューションズの終わり方はわけわからんというご意見が多いように思いますが、あれは通常漫画やアニメだとある、主人公の心中を語る独り言が無い作り方をしていることにより、ウォシャウスキー兄弟が展開だけは踏襲し、画竜点睛を欠く結果になったのだろうと感じました。

今回は哲学的な考察なので、映画評はこの辺にしときましょう。マトリクスを哲学的に考察すると、どうなるのでしょうか。

マトリクスから学んだ哲学は、

「すべてはChoice>Action>Reactionであり、それ以上でもそれ以下でもない」

ということです。確か、メロヴィンジアンがこんなことを明確に口にしますが、物語全般に貫かれているテーマです。派手な格闘と電脳プレイで目眩ましされて(しすぎとの説もある)ますが、ウォシャウスキー兄弟が伝えたかったのは、「何が正しいか、何が現実かなんてわかりゃしないんだ。とにかく、Make Your Choice!」ってことなんだろう、と。ちなみに語呂の良さを優先して割愛してますが、大前提として、Choiceの前とReactionの後には、Acknowledgement(認知)というのが存在します。これが一番大事、というのが、「すべてはあるがまま、あるがままがすべて」というぼくのマトリクス前の十数年の哲学でした。

それはまた別の話しとして、映画中の主な例を挙げますと、もちろん有名な「赤いピルか、青いピルか」ってのがまずあります。非常に明確なChoiceの例ですね。

また、Action>Reactionとして非常に印象深いのが、オラクルがネオに言ったコトバ。「アンタ、惜しいけどThe Oneじゃないね」っていうオラクルのコトバ。オラクル主観で見れば、このコトバをネオに吐くというActionが、ネオが覚醒するというReactionとなる。ネオにしてみると、自分はThe OneじゃないというAcknowledgementが、自分の命を犠牲にしてモーフィアス救助に向かうというChoice&Actionを導く。

因みに、あのキッチンでのシーンで、ネオが入ってすぐ、オラクルはいきなり「花瓶のことは気にしなさんな」と言います。するとネオはそのコトバに反応して、「花瓶?」と言って振り返り、その動作で花瓶を落として割ってしまいます。この後ネオは、「なんで花瓶のこと知ってたの?」って聞くんですが、この返しでオラクルが言うのが、

「The question that's really gonna fry your noodles later is, "Would you have broken it if I hadn't said anything?"」
「あとで本当にアンタの脳みそ(Noodles)を焼き切る(Fry)質問は、『もしアタシが最初に花瓶のことを言わなかったら、それでもアンタは花瓶を落としたかどうか?』よ」

というのがあり、これでぼくは眠れなくなりました。ウォシャウスキー兄弟、恐るべし。こんなタイムパラドクスばりのBrainTeaserを、さりげないシーンとセリフで、観客にかましやがります。

話しが逸れました。上記以外にも、リローデッド、レボリューションズたくさん例があり、実は主なものを挙げようと思ったんですが長くなるので、問題の最後のどっかーん、のところにだけ触れたいと思います。全世界がスミスになってしまう中、結局ネオも取り込まれてしまい、ありゃりゃと思ってると、内側からどっかーん!となってスミスは撃退されます。そして残ったのは、オラクルの身体。ありゃなんじゃ、ということなんでしょうが、ぼくは、スミスに取り込まれながらも、オラクルとネオは、自ら彼と異なることをchoice(文法的にはchooseですが)し、その二人の「意志」がパワーとなりどっかーんにつながったんだろうと思います。(ちゃんと説明になってませんが、コンテキストを汲んでくださいな)。最初に書いたように、主人公の内面描写を何らかの形で入れてくれれば、もう少しわかりやすかったのでは、と思います。まあそれはいいとして、ということで最後のchoiceは、「均質化を拒否し、多様(独自)であり続けること」ということかと。

この辺になると、士郎先生の「ゆらぎ」論(あるんかそんなもん)とか、ダーウィンの進化論的なコンテキストを感じさせます。が、今回の主題はそのコンセプト論ではなく、あくまで「Choice>Action>Reaction」ですので、ここは飛ばしましょう。

ということで、なんだかよくわかりませんが、マトリクスを哲学的に考察すると、

Acknowledgement → Choice → Action → Reaction → Acknowledgement → Choice(以下略)

というサイクルであろう、ということですかね。(メロヴィンジアンは、「Action, reaction, cause and effect」とか言ってたかも)んで、ここから更に煮詰めると、要は自ら「認知」し「意志」を持て、ということなんだろうと思います。これら二つを放棄すると、スミスになっちゃうぞ、とこういうことでしょう。ん?結局は「われおもう、ゆえにわれあり」ということか。うーん。

しかしまあ考えてみると、我々は日々、些細なことから、人生の岐路と思われることまで、無数にこのサイクルに則って生きてるわけです。即断もあれば、長いこと逡巡することもありますが、このサイクルからはずれることは無い(はず)と思えば、ある意味普遍的なのかもしれませんね。

ということで、「マトリクス」についての哲学的考察でした。今度、気になるあのコをデートに誘うか否かとか、何かと悩んでいる際にでも、参考になれば幸いです。ならないか。

え?ぼくですか?優柔不断を絵に描いた様な男なので、毎日悩みは尽きません。そういう自分を変えたいと思いつつ、変えられずにいるのも、自分のChoiceに対するReaction(結果)ですから。嗚呼、思考の無限ループに入ってしまいますた。

PS:昨晩、ThinkpadのHDDが逝ってしまわれました。Macがあるし、会社のPCもあるので、「デジタルな死」は免れました。もう4年ぐらい使い続けていたのでそろそろとは思ってましたが、合掌。

PPS:早速、このサイクルの小ネタを体感しましたので、報告です。

昼休みをブログの更新と、生保のおねえさんとの談笑で費やしてしまったので、先ほどニコチン及び栄養補給(コンビニ)及びトイレに席を立ちました。

一連のActionの中で、2つChoiceにミスをしました。ひとつは、コンビニに行く前にトイレに行かなかったこと。その為に、トイレに食べ物を持ち込む(別に中で食べたわけじゃないですが)という不快な状況に直面しました。別に包装されてますし直接手を洗う前に口に含むものに触れたわけじゃないですが、明らかに不快です。さらに追い討ちをかけるミスとして、買ったウイダーインゼリーを袋に入れてもらいませんでした。ビニール袋に入ったものであればまだしも、むき出しであることに、不快感は倍増しました。席を立った際、トイレ、タバコ、コンビニというAcknowledgementは正しかったのですが、順番をどうするかのChoice、及び途中の小Choiceをミスりました。今回は比較的自己完結でしたので、外部からのReactionに関しては特筆すべきものはないですが、事例として参考に供します。

皆さん、お昼休みにコンビニに行くときの行動(特にトイレ)には、充分注意しましょう。

おわり。